嘘にまみれた「私」の脱ぎ方

人から嫌われないために装っていた「私」を脱ぎ捨てて、素の自分で生きていく決意をした私の大暴走をご覧あれ!

認めることはあきらめることではなく「叶える自分」になるための第一歩

務員をしていた頃、私はよく母に、

「サービス残業や強制飲み会でどんどん時間が削られていく。小説を書く時間がぜんぜん足りない」

と愚痴をこぼしていました。

これに対し、母はいつも、

「さっさと作家になっちゃえばいいじゃない。そしたら仕事も辞められるでしょ」

と、それはそれは簡単なことのように返してくるのでした。

 今の私だったら、「あなたはなろうと思えば今すぐにでもなりたいものになれるのよ」という心強いメッセージとして受け取れていたでしょう。

しかし、当時は上のように言われるたびに、苛立ち、胸が苦しくなったのです。

なぜだと思いますか?

 

目を背けていた心の「本音」が浮き彫りに?

に対してコンプレックスを抱えている人なら、似たような思いをしたことがあるかもしれませんね。

……答えを言います。

「なっちゃえばいいじゃない」と言われるたびに、「なれるわけがない」という心の奥底に隠してあった「本音」が浮き彫りになってしまうから、ついイライラしてしまったんです。

 

「いつか」は叶わないことへの不安を誤魔化す道具

分では作家として活躍する未来を信じているつもりでした。その頃から潜在意識について多少の知識があったので、ふだんから「いつか必ず作家になる」と断言するようにしれいました。

しかし、今思うとそれは単なる虚勢で、「なれないかもしれない」という恐怖を「いつか」という言葉で誤魔化していただけだったのです。

期限を定めないことで、「叶わない」現実を遠ざけようとしていたわけですね。「いつか」と言っている限り、たとえ八十歳になって未だ成就しないという状況であっても、「叶わなかった」と認めなくていいわけですから。

八十歳を過ぎて夢を追い続けることを否定したいわけではありませんよ? むしろ、それ自体は素晴らしいことだと思いますし、叶う可能性だって十分に有り得るでしょう。

問題だったのは、「いつか」という言葉の裏に「そんなに簡単になれるわけがない」「今の自分の力量では無理に決まっている」というネガティブな感情が隠れていたということです。

 

「認めること」で得られた解放感とエネルギー

自分の「本音」に気がついたとき、ものすごい解放感に包まれました。「なれるわけがない」と感じている自分を認めることで、自由になれたのです。

そこで急に「なれる」と思えるようになったわけではありませんが、「なれるかなれないか」というモヤモヤした状態から抜け出して、「なるための行動」にエネルギーを注げるようになりました。

どうやら、「叶うか叶わないか」に意識が集中しすぎるあまり、本来の目的であるはずの「書く」という行動がおろそかになっていたようです。

まとめ

意識はこんな感じでふとした拍子にポーンと表に出てきます。

私のように、ある特定の言葉にイライラしたり、落ち込んだりする人は、一度その感情と徹底的に向き合ってみると良いでしょう。

「向き合ったところでどうにもならない」と感じるかもしれませんが、正体を突き止めることができれば不思議と固定観念は消えるものです。固定観念が消えれば、現実は自ずと動きはじめます。

向き合うことや認めることは、イコールあきらめることではなく、「叶える自分になるための第一歩」なのです。